渡辺保「歌舞伎劇評」
面白い「神霊矢口渡」
2006年12月歌舞伎座
12月歌舞伎座チラシ
(クリックで拡大)
 今月歌舞伎座一番の見ものは、夜の部第一の富十郎菊之助の「神霊矢口渡」である。いや今月だけでなく今まで見た「矢口渡」のなかでももっともすぐれた舞台の一つである。
 富十郎の三十六年ぶりの頓兵衛は、その舞台の大きさ、その手強さ、その調子、そのグロテスクなつくりの役者顔、その義太夫の味がこの役にぴったりである。そのうえ大分研究のあとが見える。最初の藪畳からの出が足駄なのが珍しく、煙草盆、柱にぶつかってのきまりまで舞台が大きい。
 舞台が廻ってお舟を刺すまではさしたることもないが、あくまで娘をそっちのけで義峰を探しているハラがいい。つづいて「呆れ果てたる」で右足を手摺にかけて左手を柱にかけてのツケ入りの見得も派手で、娘の芝居をハラでうけている具合がいい。
 「呆れ果てたる」の右足を手すりにかけ左手を柱にかけてのツケ入りの大見得、「知ってるわい」の刀を畳に突き刺して左手をかざし、お舟が手すりに手をかけての大見得、ともに立派で堪能させる。お舟の海老反りにおおいかぶさるお約束の見得は、普通は刀をかつぐか、流すところだが、富十郎は刀を両手でかざしてきまる。これは引込みに刀を担ぐ見得を使うためだろう。
 もっとも問題がないわけではない。
 一つは引込みの蜘蛛手蛸足がこの人らしくなく動きが不正確なこと。これはいろいろ考えすぎた結果である。
 もう一つは鳴り鍔を使いすぎること。始終ジャラジャラ鳴っていると手がふるえているようで散漫に見える。
 以上二つが問題だが、いい頓兵衛である。
 この一幕が面白くなったのは一つは菊之助のお舟が傑作だからである。
 故人梅幸以来、いろいろなお舟を見たが、前半がカットされているせいもあって、この娘の一目ぼれの情熱、色気というものが身にしみたことがなかった。
ところが今度の菊之助にはその実感がある。
 何気なく門口をあけて義峰を見て戸をピシャリと閉めて上手へ行ってニッコリほほえむ具合、あらためて門口をあけてからの思い入れ、二人が上手障子屋体へ入ってからの「穂に出て」で煙草盆をさし入れて、パッと二重の段におこついてきまる件り、いずれも情感があふれている。つづいて白湯を所望に出て来た義峰をつかまえてのくどき、塗り盆に顔を映してのしぐさまで。大して変わったことをしているわけではないのに切々たる慕情が出ている。
 これは菊之助が年ばいといい、清純な芸質といい、美しさといい、この役のニンにピッタリだからである。役者はニンにある役をやるに限る。江戸時代の人がニンにない役で当てるのを下手な役者とした理由はここにある。
 それに私は今度ほとんどはじめてお舟という娘の人生を見た気がした。お舟は一目ぼれで義峰を愛しながら、同じ深さで悪逆非道な父も愛しているのだ。
親一人子一人。だから蓑笠をもっての引込みに迷いもすれば、まだ自分の死までは覚悟していないのである。そこがこの少女の若さでもあり、おぼこさ、可憐さでもある。それがこのあと義峰の説得で身替りになる。丸本をよく読めば知れた話しだが、うかつにも私はそこまで考えなかった。菊之助に教えられたといっていい。
 後半の太鼓を打つ件りも、線が太く、キッパリしてよく、もう少し義太夫の型の面白さ、竹本にのる面白さが出ればなおいい。
 菊之助近来の当り役。今のうちにもっと年頃の娘役をやるべきだ。
 團蔵の六蔵は義太夫味と滑稽味がうすい。友右衛門の義峰、松也のうてな。
 夜の部には秀作がもう一本ある。次の池波正太郎作、寺崎裕則演出の「出刃打お玉」。
 梅幸の初演以来、この芝居はなんとなく後味がわるかった。菊五郎初役の時もそうである。一つにはお玉が昔の男の増田正蔵の目に出刃を打つという話のせいもある。
 ところが今度は仕立て直されて恰好の世話物になった。一つは演出の手柄もあるが、もう一つは菊五郎のお玉と梅玉の増田正蔵がユーモラスだからである。
 菊五郎のお玉は序幕のいろは茶屋で正蔵の筆おろしをする前後、まことに人のいい女を描いて好演。後半二十八年後では、老けたありさまを見せて観客を笑わせる。ことに大詰、正蔵を見送ってから、なぜ私を斬らなかったのだろうといったあと、正蔵の少しは残っていた良心に気づいて、「正蔵さん」とつぶやくまでの思い入れが鮮明でうまい。思わず見ている者にお玉の人生の歳月を思わせる好演である。
 対する梅玉の正蔵がうまい。前半のうぶさもさることながら、二十八年後、醜悪な老人になって、かつては百姓娘を強姦した森藤十郎の罪をせめた身が、今は自分が生娘を買う矛盾に気づかない。その矛盾に鈍感になった男の心情をうまく見せる。梅玉がこの醜くなってもどこかに昔の心を残してところを見せたために、芝居の後味がよくなったのだ。
 時蔵のおろくが二十八年の変りようをうまく見せるほか、田之助の好色な坊主、団蔵の森藤十郎の敵役ぶり、万次郎の女中おかね、歌江のちょっと二言三言二階から声をかけるだけの娼婦が印象に残る。
 このあと海老蔵初役の「紅葉狩」。
 弁慶役者には珍しい女形の更科姫。前半ジッとしている間は手持ち無沙汰で、見ているこっちもムズムズするのは仕馴れぬ女形ゆえ仕方がないが、舞いぶりは破綻がない。二枚扇など鮮やかとまではいかないが大過なく見せる。ただ鬼になっての引込みは大股すぎて見難い。その大仰さをおさえてこそ凄味が出る。
 後ジテは本役。但し気を失った維茂の刀におそれる件りは車輪すぎて困る。
こうやられるとツイ理屈をいいたくなる。維茂はそれまでだって同じ刀を使っていた。ここでそう大げさにおそれるのなら、前半はなんだったのか。ことに見得のたびにうなるのも閉口。
 松緑の維茂がまことに行儀がよく、海老蔵の破天荒さとは対照的で涼しげに見える。今月松緑の三役いずれも当りである。ほかに門之助の局が舞台を締め、右近の山神、ぼたんの侍女が新鮮で、しっかりしている。
 昼の部は夜の部にくらべて面白くない。
 まず菊之助の「嫗山姥」。夜の部のお舟の大出来にくらべて、八重桐はまだ無理。第一娘々して、とても情夫のある手だれの遊女には見えず、一つ一つの形、姿もよくない上に、しゃべり(物語)と踊りの区別もついていない。もっともこれは最近の悪い習慣で、しゃべりの間源七が上手へ入ってしまうためもある。
 その源七は団蔵。団蔵今月は大活躍で、ニンにない白塗りの源七をそつなくつとめたのはえらい。むろん本役ではないから柔らか味、色気はないが、それは役を振った方の罪、当人の罪ではない。
 万次郎の白菊、市蔵のお歌。松也の澤潟姫は体を持て余して大々としている。
だれか赤姫の骨法を教えてやるべきだ。
 次が時蔵松緑の「将門」。
 時蔵の如月はさすがにこちらは立派な花魁の貫目が見えるが、この人の芸風でいかにも淡泊でサラリとして、こってりとした情趣に乏しい。今の女形にはかっての歌右衛門、梅幸、あるいは四代目時蔵、九代目宗十郎といった芸風の対照がない。福助、時蔵と二人がもっと互いに意識した対照をつくるべきである。
 松緑の光圀がきちんと踊って好演。ただ滝夜叉の顔をまともに横向きで見るのはリアルすぎる。実際は見ずにそちらを見ているという距離感で、情を出すのが踊りの芸だろう。
 常磐津一巴太夫が小音になってもさすがにうまいところを聞かせる。
 次が菊五郎の「芝浜」。
 笑わせて泣かせた故人桂三木助のような深さはないが、菊五郎劇団のチームワークがよくて昼の部ではこれ一幕が見ものである。
 菊五郎の魚屋政五郎は手に入っているが、欲にはもう一歩突込んだところがほしい。魁春の女房が心持ちを出してよく、田之助の大家、団蔵、彦三郎、権十郎、亀蔵の長屋の連中、菊十郎の納豆売りまで揃っている。
 東蔵の金貸しが出色で笑わせる。
 最後が梅玉、松緑の「勢獅子」。
 ここに雀右衛門の芸者が出て梅玉の鳶頭と二人で「今も噂を春ごとに」を踊って元気な姿を見せる。
 しかし全体としては雑然とまとまりのない「勢獅子」。「勢獅子」とはこんなものではないはずだ。
▲戻る
HOME
新日屋に対する質問、
ご要望やお問合わせは
お気軽にどうぞ。
Copyright(c)2005 Shibaichaya Shinnichiya All Rights Reserved.