渡辺保「歌舞伎劇評」
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夜は「金閣寺」と「鏡獅子」
2007年1月 歌舞伎座(夜の部)
1月歌舞伎座チラシ
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新春歌舞伎座夜の部の見ものは「金閣寺」と「鏡獅子」である。
「金閣寺」は、幸四郎の大膳、吉右衛門の東吉、玉三郎の雪姫。幸四郎の大膳は義太夫の味が薄く、立敵としての描線もキッパリしないが、雪姫を「雨に逢うたる海棠桃季」という辺りに独特の色気がある。
吉右衛門久しぶりの東吉がいい。
大膳が碁盤をひっくり返すのを、左手を出して止めての笑いから「おくれを取ること大嫌い」の豪快さのなかに愛嬌があって、いい東吉である。
碁立てのノリが近来になく面白いのも、この人のせりふがうまいからである。ことに私が感心したのは、本来柄の大きい吉右衛門が、「四尺に足らぬ此下東吉」の本文を生かした工夫である。花道の出に小腰をかがめているのはだれでもすることだが、二重へ上がってからも身体を殺して小さく見える工夫をしている。この身体の扱いで、いよいよ井戸の碁笥を取りに行くところが引き立つ。すなわち二重から左足を一段落としてモモ立ちを取った見得が抜群のよさである。このあとのお約束の碁盤を持ってのいくつかの見得まで。今度の吉右衛門の東吉は見得が光っている。形のよさだけではなく、その形へ持っていくまでの芝居の運びのうまさ、その運びの積み重ねによって見得が厚ぼったい光彩を放ってまことに堪能させる。元来この役には十五代目羽左衛門、寿海、十一代目団十郎へと伝わるさわやかさを見せるもう一つの系統があるが、初代吉右衛門は愛嬌と芝居の味わいで見せた。吉右衛門はその初代の系統を引いている面白さである。
昼の部の俊寛とともに義太夫のイトにつくリズミカルな大芝居の面白さである。
玉三郎の雪姫にも工夫がある。
最初の障子屋体のなかの芝居は、歌右衛門型でいくと琴と思い入れで行くところだが、玉三郎はほとんどせりふ一つで持ち切って、その明快さで雪姫の今置かれている状況―――夫狩野之助直信の命、人質になった主人慶寿院の危機、大膳の横恋慕という苦難をいいほどいて観客にすっかりわからせる上に、堪能させた。
ことに例の柱へよりかかったお約束のところは、普通は柱へかかって両袖を重ねた形になるが、今度の玉三郎は左袖を大きく前へ出して、左袖は正面からはほとんど見えぬほどに斜め半身できまる。この姿が彫像のようなスタティックでユニークな美しさ。立体感があって、いかにも思案投首という趣きでいい。
滝に龍の姿を見てさては大膳こそ父雪村の敵と知るところは、最初表向き、つづいて裏向き、再び表向き、最後にもう一度と前後四回のきまりになるが、幸四郎の大膳とイキが合わず、ここだけはキッパリしない。
つづく爪先鼠は井戸に腰掛けて上を見上げたポーズからはじまって、二重から片足を落としてのお約束の形まで、顔を振り上げて座るいくつかのきまりがまことに錦絵。玉三郎独特の美しさであった。中腰できまる歌右衛門型とはまた違う味わいである。
引込みも「そんならお主を頼んだぞえ」で花道へ行って刀を抱いて入るやり方。刀を抜いて髪をなおす歌右衛門型とは大いに違って、気持ち本位で品があって十分に堪能させる。
梅玉の直信、左団次の正清、東蔵の慶寿院、弥十郎の鬼藤太。 次の勘三郎の「鏡獅子」がステキな出来栄えである。襲名後一年ぶりの歌舞伎座、立派な十八代目勘三郎の自信にあふれた規範正しい芸。むろん先代の、「鏡獅子」をこえている。
まず最初の「されば結ぶの」の襟をしごくところでアッと思った。あくまで端正に、しかし衣裳の下に体が動くのが見えたからである。体の動きはすなわち溢れる心。これでなければ踊りではない。
つづいて「伊勢あま小船」で上手へ廻った時にも驚いた。日本舞踊にはたびたび廻るふりがある。しかしただ廻ればいいというものではない。廻った時には体がかわり、景色がかわり、舞台がかわらなければならない。ここは「女神男神の二柱」の古代神話から「恋の根笹」を経て世話にくだけた民謡になるからである。しかし手品ではないからガラッとかわっても困る。一つの流れがあった上ではっきりかわらなければならない。
私が驚いたのは、勘三郎がスンナリ流れにのってしかも舞台の空気が一変したからである。これが踊りの面白さだろうと思った。
ということが積み重なって、川崎音頭の面白さというものもなかった。「鬢水の」の立姿といい、「櫛の歯にまで」といい、一つ一つの姿よりも動きの面白さ、踊り込んでいく面白さである。芸は円熟してたっぷりと、しかし描く女はあくまであどけない。
しかしこのあとさらに私が驚いたのは、「げに誤って半日の客たりしも」であった。ここは歌詞がむずかしい。「誤って半日の客たりしも」とは中国の神話。山中で仙人に逢った人が、仙人と半日遊んで帰ったらば、里ではすでに五百年かが経っていたというのである。しかしそんなことをいわれても、長唄を聞いても踊りを見てもわかったためしがない。
ところが勘三郎を見ていてはじめてわかった。ここで一つ廻るのだが、廻ったところで五百年が経つためである。どう経つのか。勘三郎の体がかわって時間の軸がラッとかわるのである。
目のさめる思いがした。
と同時に、まるで新しい踊りを見ているような気がした。むろんいつも見慣れた振りである。勘三郎はそれをきちんと踊っている。踊っていながら、いま、ここで振付けられたような新鮮さだった。
二枚扇になってからの品も大したものである。亡き梅幸の品を思い出した。
後ジテは顔が立派。歌舞伎座の大舞台にはえている。欲には富十郎のもつ霊獣獅子の精の精気がほしい。
この二本の前に「廓三番叟」あとに「切られお富」。
「廓三番叟」は、雀右衛門の傾城の風格が立派。冒頭袖を返したり向うを見るだけで大した振りでもないのに、溢れる色気と風情がなんともいえない大きさである。
富十郎の太鼓持ち、魁春の番頭新造、芝雀と孝太郎の振袖新造。「切られお富」は、今井豊茂の新脚本で、序幕の嬲り殺しを夢にして、一ッ家でお富が板つきで今のは夢かになる。ご趣向といいたいところだが、こうしてしまっては、黙阿弥があれだけ丁寧にお富の無残な顔を観客に見せまいとした工夫、四代目源之助が顔を隠すのがこの役の性根だといった苦心が全て台無し。色気のないことおびただしい。なにも夢にしなくとも普通にやればいいではないか。
福助のお富は喜劇になってしまった。ただ観客は笑っているだけ。「切られお富」は断じて喜劇ではない。客が笑うからといって喜劇にしてほしくない。後味の悪さいわんかたなし。
橋之助の与三郎、歌六の赤間源左衛門、弥十郎の安はいいが、高麗蔵のお滝はただギスギスしているだけで困る。
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