渡辺保「歌舞伎劇評」
二日目の「忠臣蔵」
2007年2月 歌舞伎座
2月歌舞伎座チラシ
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二日目の「忠臣蔵」
 二月東京は歌舞伎座一軒芝居、「忠臣蔵」の通しである。
 昼が大序、進物場、喧嘩場とつづいて判官切腹、城明渡し、最後が落人。夜が、五、六段目に茶屋場、討入り。
 大序。
 富十郎の師直が前回と違って、憎らしさ、悪がきいて、大きな風格。今日、菊五郎と吉右衛門二人を平舞台へおいて二重に立てるのはこの人だけだろう。ことに「黙れ、若狭」の場内を圧する大音からはじまって「卒爾とは、なんの、たわ言」の言葉の切り具合、間のうまさ、「そでねえ時は」の大きさ、「生兵法」のあざけりの芝居のうまさと上出来である。ただ「小身者の捨知行」は、「小身者に」の間違い。「御器下ぎょうも知れぬ」で中啓をブラブラさせるのもよくない。「御器」は椀だからである。
 それをうける吉右衛門の若狭助が上品でありながら、きっちりと芝居をして、この二人のやり取りに火花が散る。「還御だ」に至る二人のせり合い、その大見得から幕切れの見得の大きさまで、この二人の喧嘩の面白さ、芸の緩急が大序を盛り上げた。
 菊五郎の判官も二人の間に入ってまことに立派で、艶やか。三人の幕切れの見得は、三人三様でいて、一枚の錦絵であった。当代の大序である。
 魁春の顔世御前は前回もそうだったが、この美しさが事件を起こすのかと思わせる色香を芸で見せるのが偉い。信二郎の直義の品までふくめて、昼の部はこの大序が第一の見ものである。
 三段目の進物は錦吾の伴内、幸太郎の本蔵。四郎五郎又蔵以下の中間が一級品。
 廻って刃傷。
 富十郎の師直は時代から世話にくだける芝居のうまさがありながら、二日目のためにせりふが怪しく、一分のスキもなくきまっている型が大分狂った。しかし日がたてばよくなるだろう。
 菊五郎の判官は、私の席が下手だったせいか、あるいは富十郎の居どころのせいか、居どころがいつもよりも舞台上手に見えて、これもいささか寸法が狂ってせせこましく、かつ芝居が小さく沈んでいる。
 吉右衛門の若狭助は、裃の片肌を入れながら上手へ師直とつけ廻しになるイキがうまい。
 さて、三段目が終って次の四段目判官切腹へと三味線でつなぐのは菊五郎劇団の風習だが、ここはやっぱり一度幕を閉めるべきだ。史実では刃傷から切腹までおよそ五時間しかたっていないが、芝居では日が経っている。それに進物から城明渡しまでこのつなぎを含めて二時間二十五分。ここで幕間を取らなければ、観客が疲労する上に、それでなくともダレる判官切腹の新鮮でなくなる。
 菊五郎の判官はそのニン悪かろうはずがないが、あっさりしていて哀れ味が薄い。一つは相手の由良助にもよる。
 その幸四郎の由良助は、堂々たる恰幅の立派さにもかかわらず、実録染みている上に判官に対して情がなく冷たい。忠義よりもなによりも判官に対する情がなければ、この場の芝居は成り立たぬ。その情がうわべばかりで心に響かぬのは、肚が出来ていないため。
 主役二人のこのありさまで、ドッと疲れが出る。
 魁春の顔世は、その若さの色気、品位をとる。
 梅玉の石堂が隠当な出来栄え。左団次の薬師寺はこの人の当り芸。東蔵の原郷右衛門、秀調門之助以下の残る諸士とともに、この顔触れで舞台が大きくなる。
 芦燕の九太夫はこれも二日目のためにせりふが怪しい。梅枝の力弥。
 四段目でドッと疲れたせいか、思わぬ拾い物は次の落人である。
 梅玉の勘平が、その柔らかさ、いかにも頼りない男のはかなさを自然に出してよく、江戸和事の本筋。時蔵のお軽がしっとりと丁寧に踊っていい。ことに前半「色で逢いしも昨日今日」のくどきで、たしかにこの二人は「塩冶の御家来」になっている。ただ口先の忠義と違って、「お家の安否如何ぞ」と思う心がすなわち「忠臣蔵」の心である。翫雀の伴内まで含めてこの一幕が、昼の部では大序につづく二番目の出来。いや、この二幕しか見るものがない。
 それにひきかえ夜の部は俄然面白い。
 五、六段目。鉄砲渡しから二つ玉、勘平腹切まで。
 菊五郎の勘平は、つい四ヶ月前の十月、同じ歌舞伎座で仁左衛門が見せた勘平とは対照的である。
 五代目菊五郎から出た勘平の型には、派手で華やかな十五代目羽左衛門系と、心理的で暗い六代目系と二つある。仁左衛門は前者に独自の工夫を加え、菊五郎は後者である。
 たとえば鉄砲渡しの引込み。降る雨から火を笠で覆う、その姿のよさが仁左衛門、火を消すまいと大事にする気持ちを描くうまさが菊五郎。
 あるいはまた二つ玉の、掛け稲、山刀、細引をもっての三度のきまり。仁左衛門だとその三つの体の使い方、味わいの違いが面白い。菊五郎だと暗闇のなかで稲の水滴はきれたか、山刀の汚れは拭けたかに比重がかかって、世話ものの芝居の運びの面白さが出る。当然菊五郎の方が暗くなるが、その暗さが今まではただうっとうしかった。それが今度は違って、暗さの面白さになっている。
 六段目の「狩人の女房が」や財布に目をつけるあたりも自然で自由自在になったのもそのためである。
 もう一つ。自然にしていて、武士という性根が通っているのが鮮明になってきたのもいい。菊五郎の勘平を見ていて、いまさらながらこの芝居がよく出来ていること、時代狂言のなかでの世話の芝居の面白さを思った。
 権十郎の千崎はすっかり持ち役になって、この大一座でも引けを取らないのはお手柄。権一の与市兵衛は老巧。梅玉の定九郎は見かけはともかく、さすがに仕勝手が悪そう。
 玉三郎のお軽は、肚一つでいくアッサリとリアルな菊五郎の勘平に対して濃厚である。
 時蔵の一文字お才が、前の幕のお軽とはがらりとかわって、遊廓の大店の老けた女主人らしさを出している。東蔵の源六とともにこれも大歌舞伎。二人とも嫌味がないところがいい。
 左団次の不破は味が出てきたのはいいが、「見れば家内に取り込みがある様子」といって帰りかけるのは間違い。金を返しにわざわざ京都から来たのではないか。
 吉之丞のおかやが前回までは少し新劇じみていたが、今度は落ちついてまことにいい出来。柔らかさもあり、情もあり、手づよさもある。幸太郎ほかの狩人。
 七段目。
 今度の通し第一の出来である。
 吉右衛門の由良助は、前半は「大々神楽」で肩をあげて拍子をとるところが面白く、ついで「九太はもう、去なれたそうな」で名調子を聞かせる。後ののれんがとれて、紫の衣裳の立姿が絵のようであった。この色気が今度の収穫。次に「ようまあ吹かれて、いやったのう」やそのあとのお軽のやりとりに遊びの気分が横溢して面白く、「あのうれしそうな顔わいやい」の悲痛さもうまい。当代の由良助である。
 対する仁左衛門の平右衛門もいい。「飲んだ酒ならさめもしよう、さめての上の御分別」が立て板に水の名調子。草履を思わず担ぐと肩にチリがかかるのを払って、袖口をかえして三重の引込み。こってりと繊細な芸でまことに堪能させる。
 二度目の出からは玉三郎のお軽とイキが合って入れごと沢山のところが面白い。まず「出かしたァ」で三段にかかって左の刀をトンとついて右足を一段おろして手をあげた見得が、派手であざやか。
 私はもともとここは丸本通り、手早くやって兄妹の情愛を出すのが本当だと思う。しかしこのコンビにかぎっては、このじゃらじゃらが面白い。そこにこの二人のイキの合った芸風がある。当代の女夫役者、とかく兄妹相姦に見えかねぬところを今度はうまくおさえて、観客を楽しませている。
 玉三郎のお軽は、この人の当り芸。平右衛門に姿を見せる「こうかえ」の立身がバタくさいほかは、その姿、その色気、十分突っ込んだ芸で上出来である。
 芦燕の九太夫は持ち役。児太郎の力弥は年齢が無理。いくら歌舞伎だからとはいえ子供を廓へ使いに出す親の顔が見たい。
 亀鶴の伴内が十分出来たのはビックリ。出来ただけにこの器用さが心配である。ウデのあるこの人をもっと大事にすべきだ。
 最後に討入り。
 このチャンバラを見ていると、折角の五、六段目や七段目の役者たちのイメージが遠のいて行く。再考すべきだ。
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