渡辺保「歌舞伎劇評」
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「千本桜」の通し
2007年3月 歌舞伎座
3月歌舞伎座チラシ
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二月の「忠臣蔵」につづいて三月の歌舞伎座は「千本桜」の通しである。
「大物浦」と「鮓屋」はついこの正月に浅草で出たばかり、「四の切」も去年十一月新橋に出たばかり。いくら通しと一幕ずつの見取りは違う、役者が違うといっても、こう同じ演目ばかりだとさすがに食傷する。異常現象である。もっと新鮮な企画を考えるべきだと思う。
昼の部が鳥居前、渡海屋から大物浦、道行。
夜の部は、木の実、小金吾討死、鮓屋、四の切、奥庭。
まず、鳥居前から。
菊五郎の狐忠信は「待てェェ」の花道の出からカドカドのきまり、引込みの花道の大手をひろげてのツケ入りの見得まで、その狐隈をとった顔に豪否な太いタッチが見えて、故二代目松緑の人形のカシラのような光彩がさしてきたのが進歩である。芸の艶というべきか。今度の忠信はこの場が第一の出来である。
もっとも狐六法の引込みは、狐と忠信の気の替り目がはっきりしない。突込み方が足りないせいだろう。妖気漂うとまではいかなかった。
梅玉の義経が、品のよさ、行儀の正しさ、哀愁があって今日の一級品。これで静との別れにもう一杯の情があれば役としての風情が出る。
福助の静がしっとりとサマになっていて、正月の「切られお富」とは大違いのよさ。やはりこの人は今日の赤姫役者である。左団次の弁慶も本役。さて、以上菊五郎から左団次まで本役揃いなのに、見終わってみるともう一味喰い足りない気がするのは、今日の歌舞伎の芸の淡泊さのためか。
亀蔵の笹目忠太も本役で役それ自体としては悪くないが、問題はこのあとの「道行」に仁左衛門が御馳走に早見藤太に出るのだから、あっさりとやって、物見だの女武者だのという件はカットすべきだろう。通しのときはそうするのが慣習でもあり、工夫でもある。
次が渡海屋から大物浦。
幸四郎の銀平は、その恰幅、その口跡、この人の義太夫物のなかではいいものである。ことに最初の銀平の間がいい。ただし「おかくまいしたらなんとする」で奥の義経に聞かせる芝居が足りないのと、武士の武はホコを納めると書くというのは間違いだろう。ホコを止める、でなければ武にならない。
銀平の間の世話物から知盛になると、湧き上る力、意気込みが足りず見劣りがする。ことに「田村」の謡で舞うところは足取りがフワフワしていて重量感がない。
廻って大物浦はやはり体が浮いているのが難点。ドラマの骨格がはっきりしないからだ。あれほど義経に恨みを持った知盛が「昨日の仇は今日の味方」と心折れるのは、第一に安徳天皇が知盛を捨てて義経へ乗り換えたから、第二に典侍局の自害、と「重なる憂き目」に逢うためであり、しかし第三に天皇を、「六道の苦しみ」を味あわせた義経の責任を追及して無視され、そこで翻って第四に父清盛の「その悪逆」に思い至るからである。清盛が安徳天皇を男子と偽って即位させたという件りはカットしても、この四段のドラマのゆくたてがはっきり芝居にならなければ、この芝居は生きない。そこらの掘り下げ、細かい手順への気配り、芝居の運び方への工夫がたりないために演技が表面的になる。
坂田藤十郎の典侍局は、お柳の間のしゃべりはさすがに話の構造がはっきりしているが、声を低くしたために色気に乏しい。典侍局になってからは帝の佩刀も出さずに、知盛が出る前にお安を玉座に直してしまう手早さ、「さては常々の御願い、今夜と思し立ち給うな」もないために、局が最初から今夜の知盛の計画を知っていたのかと思われそう。
廻って奥へ行くとさすがに立派な天皇のお乳の人。二度の注進をうけている間のハラも十分で、とかくだれでも通り一遍になりがちな二重屋体の敗戦を知る間がドラマティックになる。
天皇との芝居は他の人とはかわっていて平舞台上手で全てやる。「いかに八大竜王」も袴をサッと捌いただけでその居どころのままである。
梅玉の義経がここもよく、安徳天皇を抱いての花道がまことに優美。左団次の弁慶、歌六の相模五郎もいい。入江丹蔵は高麗蔵。
昼の部の最後が「道行」。
芝翫の静御前が古風でたっぷりと豊かな大きさ。これだけ古風な女形は今日他にはないと思わせる芸格。踊りもうまく、菊五郎の忠信とイキも合っているのに、惜しいことにこの人に一つの病がある。すなわちリアルに動き過ぎるところがあって、折角の踊りが説明的になって興味が中断する。たとえば花道から本舞台へ来るとき、下手の書割りから清元の山台まで桜をながめ廻す白々しさ。あるいは「天井抜けて」でこうですか、これでいいのですかという説明。この人にしてこの病い。ああ、惜しみても余りある。
菊五郎の忠信は、初役の頃の華々しい美しさはなくなったが、踊りに味が出てきた。この上は「帰る雁」あたり、もう一歩堪能させてほしい。狐六法の二膳込みも通しの時は一考すべき。「酒がすぎたやら」で芝翫の静とともに二人で下がるあたり、ピタリとイキが合っている。
仁左衛門の藤太がさすがにうまく、舞台をさらっている。
さてその仁左衛門の権太で夜の部が開く。
今月これが一番面白くもあり、見ものである。丁度三年前の、この権太を見て、仁左衛門の工夫の新鮮さに驚いたが、今度も上方の型を土台にスッキリした東京風の味わいを加えて上出来である。東京では二度目の故か、前回よりもサラサラと運んで客を唸らせるうまさ。細かいところは前回ふれたので繰り返さないが、木の実でいえば、「ねだり者」であぐらをかいたツケ入りの大見得を中心に、この人のリアルな地芸のうまさが際立っている。「その足弱をつれたのが盗人の付け目だ」あたりから段々本性をあらわす凄味の味わいがこの人独特で面白い。小せんに咎められての「何もしてへん」や「また始めよったナァ」もうまい。
秀太郎の小せんの残こんの色香、世帯やつれの味がよく、東蔵の若葉の内侍も品格、雲の上人の嫋嫋たるところがいい。扇雀の小金吾。廻って小金吾討死、三方飾りの三杯道具は贅沢である。いくら現代でも義太夫狂言は簡素なところに面白さがある。過ぎたるは及ばざるが如し。
ここで二十分も幕間があって(何のためか分からないが気が抜ける)「鮓屋」。
仁左衛門の権太は、足で格子をあけて座敷へドッカと尻まくりで座った姿が印象的である。「姿ァ早く出んかい」の悪態から「届かぬ舌」で二重へ上がって葉蘭の水を涙にみせ、同時に手拭を出して首をつるマネをし、その手拭を取りに母親がよるので、その膝へもたれかかって甘える手順もあざやかである。
弥左衛門が戸を叩くので、「奥と口とへ」でのれん口へ入るところは、動きは小腰をかがめるだけの地味さだが、印象的に見えるのは、それまでの地芸が生きているからである。
二度目の出は平舞台でソクに立って後の帯へ両手を廻した大見得がスッキリしていて音羽屋型以上にイキである。ここらがこの人の持ち味。
首実検は「下に居んかい」で二人の間に割って入って縄をふむのがかわっている。
小せん母子を送って思わず下を向く具合、花道へ行って「大将、褒美の金を」のあとガックリとひざをつく具合から「頼んまっせ」で下を向く絶望感も独特。
手負いの物語は「お父ッあん」というと同時に母親にも言う。この権太はマザコンなのが面白い。そういう権太の人生が強く出る。
「血を吐きました」の前の「堪ったもんじヤァごんせん」は絶唱であった。
時蔵の弥助がいい。柔らかさ、品位、それにどこかとぼけた可笑しさがあるのがいい。たとえば「所詮開かぬ平家の運命」で自害しようとして腰へ手をやると刀がない。思わず子供の小刀をとって死のうとする。そのとぼけ具合がこの役の本質を活写している。惟盛はそういう男なのだ。
孝太郎のお里が目いっぱいにやって大進歩。「お月さんもねねしてじゃぞぇ」の蓮ッ葉な色気がいい。上出来である。
東蔵の内侍のなよなよした具合。これが本役と見せるウデ、この人の芝居で弥助、お里の三人の身分の違いが生きた。
左団次の弥左衛門に老熟の味が出てきた。自分の出生の件りがカットなのは残念。
竹三郎の母もよく、我当の梶原は白塗り、黒の半素襖という立役肚。権太、「首にして」というのをきいて膝についた軍扇の手を滑らせての思い入れだけで、この男の計略の齟齬―――さては失敗したかという肚をわからせるのは年功。
幕切れは女二人が弥助にすがるところがなく、下手に弥助一人立身、弥左衛門は上手に座って幕になる。そういえば時蔵は「御運のほどぞ」の引込みで今度は花道を使っている。
次が菊五郎の「四の切」。
本ものの佐藤忠信はさすがに下げ緒さばきも危な気がないが、もう一つ面白味がない。
二役狐忠信は丁寧にしていて、情もあるが客を泣かせるところまでは行かなかったのは残念。
梅玉の義経、福助の静、団蔵の亀井、秀調の駿河、それに彦三郎と田之助の法眼夫婦という豪華版。
道具幕で奥庭があって、幸四郎の覚範他一同が出る。
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