渡辺保「歌舞伎劇評」
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「菊畑」大出来
2007年4月 歌舞伎座(昼の部)
4月歌舞伎座チラシ
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信二郎改め二代目中村錦之助が誕生した。
昼の部の披露狂言は「菊畑」。これが大出来である。
とかく近頃の「菊畑」はよく出る割には面白くない。十七代目羽左衛門の鬼一は傑作だったが、それ以後ロクな「菊畑」がなかった。しかし今度は久しぶりに面白い。
まず富十郎の鬼一、吉右衛門の智恵内がともにいい。二人の対決が「菊畑」の面白さを堪能させた。芸は相持ちというが、鬼一智恵内二人がよくなければ芝居は面白くならない
富十郎の鬼一は、初役は私の見た日は休演で左団次の代役。二度目はさしたることもなかったが、今度は誠に充実していい鬼一である。前回は花道から出たが、今回は本文通り上手庭木戸から腰元に手を引かれて出る。菊の花壇に寄って、眼鏡をかけ花を眺めるところが、せりふの調子、明快さ、まことに味わい深い。「ホウ、咲いたわ咲いたわ」の出だしから、「身にぞ沁む」の人生晩節の述懐の味わい、「たが石割とは」の笑いと愛嬌。いずれもたっぷりといい出来である。それから花壇を見ている間、長い竹本の間、体が少しもあかず、「さればホウ祖が」で後手に杖をついてグッと背を伸ばしたきまりが、後姿であるにもかかわらず皮肉な型でキッパリと大きい。
しかしなんといっても全段の白眉は、吉右衛門の智恵内とのからみ、肚の探り合いである。
吉右衛門の智恵内は、浅黄幕がおちたところ意外に雰囲気が地味だったが、奴との芝居で一気に客の気を取って盛り返す。すなわち高笑いの面白さが一つの芸になっていること、「転合すな」のせりふのイキ、ホウキを振り上げて左裾をまくってソクに立つきまりのうまさでたちまち観客をひきつける。
その智恵内の面白さで鬼一の出が一段とはえるのだが、この二人がならんでの庭の問答をするところは、二人の芝居で歌舞伎座の客席に今出川の庭の風景がひろがる。
つづいて鬼一の「奉公せよ」も情があって次の述懐が生きる。ここはどこで智恵内が実は弟喜三太と悟るかが問題のところだが、富十郎はあくまであからさまにそれと見せない。二人の肚でさぐり合い、アウンの呼吸で芝居を運ぶ。「今ははや」の思いから「伝来の虎の巻を」のあたり十二分に聞かせておいて、智恵内のウラ問いに今の主人は「清盛公より他にはない」とキッパリ言い切るあたり、まことによく肚を聞かせる。
「久しく煙管に対面せず」からが、なかでも見ものである。智恵内の「根問い葉問い」で鬼一はそれと察したことが手に取るようにわかる。すなわち「煙に欝を」で吉右衛門がやや下手向きで向うを見る。それに鬼一が目をつける。二人がそれとなく見返ってハッとなりハラを見せて、「花に余念」であらためて思い入れになってきまる。ここの面白さは、久しぶりに見る歌舞伎の肚芸の面白さである。もっともこういう芸の面白さは当今の観客にはわかりにくいかも知れない。ハラ一つ、イキ一つの微妙な面白さだからである。しかしこういう面白さがなければ、そもそも歌舞伎は無用の長物なのだ。
虎蔵を打てというところも面白い。鬼一の「早く打て」の気迫、「打って打って打すえい」の大きさ、智恵内が打ちかねてから「その杖おこせ」になり、杖一本を二人が引き合う、その杖に心が通う面白さ、パッと離すイキ、そのあとのツケ入りの二人の大見得まで、実に堪能させる。
ただこの鬼一には九代目以来有名な「晴れの草履」の手のしぐさがなかった。
新錦之助の虎蔵は、おっとりと嫌味がなく、今日大抵の虎蔵がバカバカしく見えるところがまことにそれらしく見えるのがいい。たとえば「ヤヨ喜三太」で床几にかかったところ右足を伸ばして、左足を引いた姿が自然に出来ているのもその一つである。この役がウソっぽく見えてはこの芝居はおしまい。錦之助がそこを乗り切ったのはえらい。
笠原堪海が出たところで、師匠富十郎、親戚吉右衛門、皆鶴姫の兄時蔵、湛海の従兄弟歌昇、腰元の長男隼人と一家一門水入らずの口上がある。
この一幕が昼の部一番の見ものである。
今月もう一つの見ものは、「菊畑」の前にある「男女道成寺」の勘三郎の花子。
踊りといい、持ち味といい、芸の艶といい、まことに申し分がない。襲名のときよりもさらにみがきがかかってゆったりとした余裕があっていい。
たとえば鐘づくしで烏帽子の紐に手をかけてクイッと鐘を見上げる具合、あるいはまた「いわず語らぬ」の手ぶりのあふれるような情念、「紅かねつきようぞ」の形のよさ、振りと芝居の間をいくイキ、リアルでしかも踊りになっている面白さ、ことに「ただ頼め」の手招きをする手ぶりの丁寧さ。いずれも艶やかさ露のたれんばかりである。
狂言師は仁左衛門だが、これは玉三郎との共演の方が背丈が合っている。
この前に「曽我春駒」と「頼朝の死」。
「春駒」では、獅童の五郎の古風な顔立ちが目に付く。
「頼朝の死」は総体にテンポがのろく緊迫感に欠けて退屈。これは今日の俳優誰もが真山青果独特のせりふの朗誦法と人間の心理とのヅレの間で悩んでいる結果である。
梅玉何度目かの頼家は、さすがにせりふがこなれて立派だが、青春の屈折の感情が薄くなった。幕切れの刀を降り下げたりするところに感情の爆発があってもいい。
芝翫の政子はその風采まことに大舞台だが、芝居がリアルすぎてドラマが小さくなった。東蔵の中野五郎一人が明快。
歌六の大江広元、歌昇の畠山重保、福助の小周防。
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