渡辺保「歌舞伎劇評」
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「め組の喧嘩」第一
2007年5月 歌舞伎座(夜の部)
5月歌舞伎座チラシ
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五月歌舞伎座恒例の団菊祭昼夜八本立て。第一の見ものは夜の部の二番目、「め組の喧嘩」。
菊五郎の辰五郎がいいからである。
まず序幕品川島崎楼。藤松らをとめての出。御屋敷方への折り目正しさ、「黙っていろ」と若い者を止める具合、さすがに組合を背負って立つ人間の器量が見える。相撲とは身分が違うといわれてはじめてグッとくる思い入れも、性根が正しいから効く。
しかし全幕中第一の見どころは、序幕の返し八ッ山下のだんまり。体のはしこさ、形のよさ。しかも団十郎の立派な四ッ車大八、田之助の尾花屋女房、梅玉の焚き出しの喜三郎と、この役者揃いもあって久しぶりで世話だんまりの絵模様を堪能させる。菊十郎の茶飯屋もいい。
二幕目芝居前はさしたることもなかったが、三幕目の辰五郎内はいつもは眠くなるダレ場が今度は面白い。菊五郎の辰五郎の死を覚悟した性根がはっきりして、そこから来る余裕が芝居を自由にさせているからである。「下戸の知らねえ味だなァ」など肝腎なところで思い入れが客席に通る上に、人間のやむにやまれぬ運命を感じさせる出来。菊五郎の円熟である。
この場の時蔵のお仲も気ッぷがよく、夫のウラもオモテも知り尽くした上での愛想尽かし、この幕だけは黙阿弥が書いたという伝説がある芝居のよさが生きる女房ぶり。団蔵の亀右衛門とともに菊五郎を助けて舞台を締める。
このほか、松緑の藤松、権十郎の長次郎、翫雀の文次に、左団次の江戸座の座元、万次郎の島崎楼の女将と、菊五郎劇団総出である。
夜の部はこの前に、十七代目羽左衛門七回忌追善の万次郎の「女暫」と舞踊の上下。上が松緑の「雨の五郎」、下が三津五郎の「三ッ面子守」。
「女暫」は万次郎が思ったよりも堂々と線が太く、骨太にこなしているが、現代の客席はこういう芝居になると何がなんだか分からず、静まり返ってスキ間風が吹く。舞台の上にも若手が多く、今日は初日のせいもあって芝居が堅く、全体に面白味がうすい。せっかくの古劇、演出を工夫して面白くならないものか。
彦三郎のウケ、腹出しが海老蔵、団蔵、亀三郎、男女蔵、亀蔵と手揃い。なかでは海老蔵がいいのはこの人が荒事のニンだからである。太刀下が権十郎、亀寿、秀調、右之助、なまずが松緑、菊之助、それに三津五郎の舞台番。三津五郎が暫はやったことがないといいながらやって見せる、その引込みの稽古が荒事の本格を見せて目が釘づけになる。
さて、以上あっさりした夜の部にくらべて昼の部は実にくたびれる。重くてもたれる。舞台が未消化だからである。
まず昼の部の第一は山本周五郎原作の「泥棒と若殿」。矢田弥八の旧作とはいえ、久しぶりの新作らしい新作で新鮮だが、脚本がやたらに転換のみ多く、かつは初日のせいもあってテンポが出ず、もう一つ舞台がはずまない。日がたてば好い芝居になるだろう。
松緑の泥棒伝九郎が江戸ッ子らしいところを見せて気をはく。やはり若い役者にとっては新作が第一。イキイキしていて気持ちがいい。松緑のヒットである。三津五郎の若殿が不遇の身の上から伝九郎に気持ちを通わせて、人が変わっていく具合をうまく見せる。
次が明治天皇の天覧歌舞伎百二十年記念という有難い触れ込みの「勧進帳」。しかしいくら有難い触れ込みでも、ここわずか半年の間に、去年十一月の演舞場、今年一月歌舞伎座と松竹座、三月パリオペラ座とそれに今月と、五回も、「勧進帳」が出るのは異例ではないか。相手がかわれど主かわらず。顔ぶれがかわってもこの「勧進帳」ラッシュは、いささかげんなりする。しかしそう思いながら見た「勧進帳」は、さすがに団十郎と菊五郎の顔合わせ、思ったよりも面白い。
まず第一にパリ土産の団十郎の弁慶が、口跡があいかわらず間が伸びる欠点はあっても、せりふ廻しが明快になり、芝居の筋が通って見違えるほどわかりやすく、ノットにかかる覚悟、山伏問答、義経を打つ前後と肚がしっかりしてきた。外国人にもわからせようという努力の結果がいい目に出たのである。このままハラを掘り下げていけば、今までとは一変していい弁慶になるだろう。もっともこの人の本当のニンは父十一代目団十郎と同じく富樫である。
その富樫の菊五郎は今回まことに立派。今までのこの人の富樫の陰に篭ったところがふっ切れた上に、声もよく出てさすがに形容が大きい。しかし弁慶との男同士のぶつかり合いのドラマの根幹からいえば線が柔らかく優美すぎるのも、これまたこの人のニンは富樫よりも義経だからである。ここらが歌舞伎のニンのむずかしさである。
結局三人の中では梅玉の義経が一番の本役。この幕中第一の出来である。その上品さ、嫌味なことを一切しない行儀のよさ、たとえば天地人の見得のさりげなさ、引込みで成駒屋型を守って笠に手をかけはするものの目立たずにするほどのよさ。ことに「判官御手」の右膝を立てて右手を出した形のよさには感心した。情愛、心持ちでこれにまさる義経は他にもいるが、この形のよさは当世無類である。
四天王は友右衛門、家橘、右之助、団蔵。菊十郎、松太郎、新蔵の番卒が一級品。
さて昼の部最大の問題は、三越劇場以来東京では十年ぶりの海老蔵の「切られ与三」。
木更津の見染めははじめて見たが、源氏店との対照を出そうとするためか、極端にグニャグニャして違和感がある。もっと自然にスーッとやれないものか。しかしお富と見つめ合うところは熱っぽく、ストレート。実感あふれていい。若さの恋の想いがよく出ている。
さて問題は源氏店。さすがに十年の歳月はムダではなく、歌舞伎座の大舞台にピタリとはまる役者ぶりの上達、驚くばかり。前回初役の時の凄味がさらに深まり、さり気ないところが絵になっている。たとえば門口で足で石をもてあそぶ姿、蝙蝠安が藤八を責めるのを左膝を立てて右手を後ろへついて見ている姿、門口へ出て家の中のお富をジッと見て思い入れになる姿。いずれも自然に生きていい絵になっているのは、役がこの人のものになった証拠である。
問題は肝腎の「しがねえ恋の情が仇」のせりふ廻しと形に悪い癖があること。
「き、ら、れ、の与三と」のせりふの切り方、「けーえーらーれーめーえ」の伸ばし方は失笑ものである。とかくせりふを浮かめていうのと語尾をのばすのが技巧だと思っているように見えるのは大きな勘違い。それに「与三郎だ」の見得でうなり声をあげるのも汚らしい。
研究熱心な海老蔵が部分的ではあるが方向を間違えている。これだけの与三郎にまことの惜しい。残念である。
菊之助のお富は玉三郎ばりなのが、この人だと情がなく、男っぽくて、冷たく見えてよくない。折角去年十二月のお舟で女形の本道に出た菊之助、わき目を振らずに女形に集中してほしい。それが身につけばこんなギスギスしたところはたちまち消えるだろう。
市蔵の安は、自然な芝居の運びはいいが、突っこむところには芸の緩急、濃淡がほしい。橘太郎の藤八は達者だが、どこかせりふが現代調になる。「源氏店」は江戸生粋の世話物、しかも黙阿弥とは違う瀬川如皐の文体が生きていないからである。
左団次の和泉屋多左衛門が出て、やっと舞台が締まった。
このあと、芝翫の舞踊「女伊達」。からむ男伊達は翫雀と門之助。
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