渡辺保「歌舞伎劇評」
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仁左衛門の綱豊
2007年6月 歌舞伎座
6月歌舞伎座チラシ
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八年ぶりの仁左衛門の「御浜御殿」が名品。六月歌舞伎座昼夜通して一番の、いや最近の歌舞伎座の見ものである。
その口跡、その調子、綱豊を一代の当り芸としていた故人寿海にまさるとも劣らぬ名調子で見るものを陶然とさせる。第一場のお浜遊びはさしたることもなかったが、第二場の新井白石との対話の冷静かつ厳しく現実的な音調、つづいて第四場の富森助右衛門との情熱的な対決。ある時は低く、ある時は高く、またある時は早く鋭く、あるいはゆっくりと、感情に訴え、論理を追い、さしては引き、引いては返す波の如く、千変万化の面白さである。芸の円熟、技法の結果いうまでもないが、私が感心したのは単に技術の高さではない。技法の駆使と綱豊という一個の人間の真情が一体になっている点である。
真山青果のせりふは音吐朗々といわなければ面白くない。しかし音吐朗々といえばとかく人間の感情がおきざりになる。そこが、やる人見る人ともに大いに迷うところである。
今度の仁左衛門がいいのは、そこが一体になっている。この綱豊の名調子にはそのうちに一種の狂おしいばかりの情熱がある。綱豊は単に富森助右衛門から大石内蔵助はじめ赤穂浪士たちの動向の情報を知りたいだけではない。その真相をさぐることが自分の生きる道につながる。いわば自分探しの道。その道を探すことがすなわち今日、自分が生きるということであり、次期将軍としてのおのれの政治の根幹にかかわる。綱豊はこの一幕のあいだにそれを探し当てて成長する。その成長に賭ける情熱の激しさこそが、この名調子そのものに潜む情熱なのである。
仁左衛門の綱豊を見ていると、このドラマの筋道がまことに明快に見える。せりふと人間の真情が二にして一。陶然となると同時に感動する。
染五郎の富森助右衛門がまた上出来である。故人三津五郎や翫右衛門の屈折した皮肉な人間像とは違うが、仁左衛門に伍した調子のよさ、明晰さ、芝居のうまさで、染五郎なりの富森を創った。第一すみずみまで芝居の意味、作者の真意がよくわかる。今度のこの一幕の成功は、染五郎のよさにもある。
二人の間に立って芝雀のお喜世もいい。他に秀太郎の江島、万次郎の浦尾、松之助の小谷甚内がよく、歌六の白石、橘三郎の津久井九大夫。
以上を含めて、仁左衛門、染五郎びいきはもとより歌舞伎ファン必見の舞台である。
夜の部は、このあと幸四郎、吉右衛門の「加賀鳶」と、染五郎の「船弁慶」。
幸四郎の道玄は、抜衣紋にふところ手の背格好が叔父二代目松緑の姿をよく写して前回より進歩した。嫌味な当てっ気が少ないところがいい。しかし質屓世、名代のゆすりのせりふは、吉右衛門の松蔵とともにもう少し人を酔わせるところがほしい。この人だったらば最近だれでもやる上演台本ではなく、黙阿弥の原作に戻してほしい気もする。二役梅吉。
吉右衛門の松蔵は、序幕木戸前の俺も殺して行けというところが梅吉と同じにならないところがよく、引込みもなんでもないようにしていて味がある。御茶ノ水の幕切れ「アア按摩か」の一言もうまい。
秀太郎のお兼がじゃらじゃらしたところがあるのがいい。鉄之助の道玄女房が唯一黙阿弥世界の味を色濃く残している。延郎の百姓太次右衛門は芝居がしっかりしていい。宗之助のお朝はせりふの語尾があがるのがなんとも聞き苦しい。この人にかぎらず、黙阿弥のせりふの調子がよく研究されていないのが芝居の味をうすくしている。
最後は染五郎の「船弁慶」。静は顔が小さくてさながら少女の如く、情が出ず、後ジテ知盛も動きは鮮やかだが、凄味に欠ける。
幸四郎の弁慶がさすがに大きく、芝雀の義経が本役。舟長は東蔵。
昼の部は、まず「妹背山」の半通し。春日野小松原、太宰館、山の段の三幕である。
小松原は、梅玉の久我助が品もあり色気もあって本役。魁春の雛鳥も本役だが、欲には二人が互いに見つめ合うところがもっと情愛がほしい。この大悲劇の伏線としては淡泊すぎて、筋を通すだけになったのは惜しい。それにはささやき竹の件りももっと型を工夫した方がいい。幸太郎の腰元小菊は三枚目の突込んだ芝居はいいが、それにしては化粧が当たり前すぎる。
二幕目太宰館。通称「花渡し」は間違いという説(「吉田栄三自伝」)もあり、楽屋内の通称はともかくも正式の筋書きは太宰館だけの方が穏当だろう。ましてこの通称に辻褄を合わせて幕切れになんの説明もなく官女が大判事と定高に桜の一枝を渡すのは苦しい。幕開きの腰元の渡りぜりふがまことに行き届いているのにくらべて、こっちはやりっ放しである。
幸四郎の大判事は、花道を出たところさすがに立派。藤十郎の定高もキリッと引き締って最初の二人の、定高が立身、大判事が座ってのツケ入りの見得、次の「争うたり」の定高がオモテ、大判事がウラのきまりも十分である。
彦三郎の入鹿もせりふが明快。ただ二日目のせいか三人ともに味が出るところまで熟していないのは是非がないか。
次がいよいよ大曲「山の段」。
前半。梅玉の久我助は、若さ、人品、行儀、味わい、まことにいい久我助であるが、「心ばかりが抱き合い」のあたり、ほとんど動かぬためにもう一つ淡泊で情愛が足りない。雛鳥を扇でとめて、その蔭から雛鳥の方を見る姿が絵のようで、この姿のよさがこの久我助が本役であることを思わせた。
対する魁春の雛鳥もくどきで胸を袂で抱くあたり、色気と品位と、それに情愛が出ているのはさすがである。
さて後半。幸四郎の大判事は回を重ねて動きは手馴れてきているが、味わいに乏しいのはハラが深くないからである。それでも花道の間はまだいい。後半になればなるほど泣きすぎて芸の描線の輪郭が崩れる。時代物中の大曲をあくまでハラが強く、動きはカッキリと手強くありたい。久我助切腹の無量品を読む経机は真横すぎて絵にならない。正面向きの久我助、脇へ開いて斜めの大判事、その絵が父の忍耐とハラである。
人一倍調子のいい、この人にして、「倅清舟承れ」から「閻魔の庁を名乗って通れ」のノリのせりふが平板なのも義大夫がハラにないからで、ここで怒涛のような音曲的な陶酔がないために床の竹本が浮いて舞台が散漫になる。
対する藤十郎の定高は、前回国立劇場のとき以来、出来るだけ浄瑠璃の本文、人形の動きに近づけての独特の型が相変わらず面白いが、二度目になって見慣れてみると地味であることも否定できない。花道の「枝ぶり悪い桜木は」などワッと来ないのである。雛鳥への「恋も情も」あたりは定高の複雑な性根を見せていいが、その前後のせりふ廻しはやはり本行とは違うはなやかさがほしいところでもある。
この定高でいいのは雛人形の首が落ちたあとの「なんの母も」で雛人形を持って立身で文楽風の足拍子を踏むところ。前回はちょっと無理に見えた演出が、今回は落ち着いて大きく燦然と輝いている。ここがこの定高第一の出来である。
「命もちりじり」あたりは内輪になった分芝居が流れている。ここで食い止らないと見ている人間のカタルシスがおきない。
雛渡しで首に化粧する件は、かっての桐竹紋十郎の定高を思い出させたて、最後に思わず首を抱きしめるところがうまい。
最後に大道具に一言。上手背山の手摺りが自然木のように見えたが、余計な好みだろう。正面吉野川が悠々たる大河の如くなのもリアルにかも知れないが余計なことである。
次が松貫四(吉右衛門)、川崎哲男合作の狂言舞踊「閻魔と政頼」。地獄の閻魔より人間の方が、責任逃れ、嘘つきという悪人ばかりという、現代風刺が面白い好企画だと思ったが、あっさりしていて拍子抜け、落胆した。一つは最初の見せ場、吉右衛門の踊る鷹狩りの由来が、詞、曲、振りともになんだかよくわからぬこと。もう一つは肝腎の鷹狩りの実演―――すなわち鷹が獲物を獲るところが、作り物の鷹を揚幕へほおり込むだけというのが仕掛けとして面白くないこと。この二点のためである。ことに後者は芝居のうまい吉右衛門が仕形咄で見せたらばさぞ面白かったろうに残念。
富十郎の閻魔はやたらに大音で、少しもおかしくない。富十郎の狂言の師だという故人善竹弥五郎はこんなしゃべりつきはしなかった。
最後に染五郎の長男藤間斎の初舞台用の「春雨傘」の仲の町一幕。梅玉、仁左衛門、吉右衛門がつき合う豪華版。孫の手を引く幸四郎の愛嬌、嬉しそうな笑顔が実に印象的だった。それに後ろに控えて若旦那の坊っちゃんを見守っている吉之丞、幸右衛門の感無量の姿も忘れられない。まずはめでたい。
染五郎の大口屋暁雨、芝雀の葛城、彦三郎の鉄心斎、高麗蔵の薄雲、友右衛門の新兵衛、歌江の新造。
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