渡辺保「歌舞伎劇評」
福助初役のお光
2007年7月 国立劇場
7月歌舞伎座チラシ
(クリックで拡大)
 福助初役のお光がいい。
まず正面のれん口から野菜の笊を抱えて出たところ、その明るさ、その若さ、そのきれいさ、まことにお光らしい。つづいて「天神様や観音様」と手を合わせての思い入れ、「第一は親のおかげ」と上手一間障子屋体への思い入れのあどけなさ。真からの田舎娘で引き締ったいい出来である。とかく段取りになりがちな化粧も、丁寧をきわめて心がこもっている。世話物は、この「それらしく」情がこもっているのが第一である。
 お染がくる。お染とのやりとりのうちいいのは、「さてはお染と」と気がつくところの舞台の大きさから「ビビビビ」、そのあとの「なに阿呆らしい」で縁端へ腰掛けるキマリである。ここはとかく少女を強調するあまり子供っぽくなる。福助はここが大人の娘になっていて、芸に厚味、味わいがある。むずかしいところを微妙な味を出したのは大手柄、近来のお光である。こういう芸の面白さが出なければ、「野崎村」など山城少掾のレコードを聞いているに限る。
 もう一つ私がはじめて感じたのは、お光のお染に対する同性愛的気分である。有名な武智鉄二の説であるが、そういうことを私は今までだれのお光にも感じたことがなかった。しかし今度の福助にはそれがある。そうするとこの娘のお染に対する嫉妬があざやかに浮かび上がり、後半お光が尼になる心持ちにも微妙な陰翳が出る。これはこれで一つの主張であるが、その主張を実際の舞台で感じたのは今度始めてであった。
 しかしこの件りに多少の問題がないわけではない。
 一つは山木戸を片手でグーッと閉めること。乱暴で、折角の芸が粗雑になる。
 もう一つは三度も泣くことである。一度はいいが三度は多すぎる。それに悲しさの涙か口惜し涙かがはっきりしない。以上二点がキズである。
 久作と久松が上手の母の病間から出る。
 ここで灸点の道具を持ったお光が「立つ煙」で縁側へ片足を下してフッと門口を見る。ここの福助の立姿、思い入れがいい。芸の味わい、面白さ、お光のお染と久松に対する複雑な性根が出ているからである。
 久松との喧嘩があって引込みになる。この引込みの手順、芝居が、東蔵の久作とともにすぐれている。はじめお光は久作のとめるのを振り切って、上手の久松のそばへよる。下手にお光に逃げられた久作が上手へ来て二人を引き分けようとする。その手をツイとお光が下手へ逃げる、入れ替わって久作がお光の方へ行ったはずみに自然と門口のお染に気がついて驚く。それにつれて下手に座っていたお光も門口に向かって立つ。久作が慌てて、お光の手を抱え込んでのれん口へ入る。
 二人がこれだけの手順をまことに整然と竹本の三味線にのってやる。その動きの整然たる面白さに、久しぶりで私は義大夫狂言の味わいを十二分に堪能した。東蔵の久作はニンにない役をうまく大きく見せて、ここの持ち味は十分である。
 お光二度目の出。型どおりであるが、福助今度のお光はせりふのイキがつんでいること、思い入れがしっかりしていること、人の芝居を受けている間のハラの芝居がうまい。そのうまさが後半で発揮される。
 まず綿帽子が脱げて驚く久作の口をおさえての、上手一間への思い入れがきいている。ここは一間の母に聞かせまいというのがハラ、そのハラがしっかりしているから思い入れがきく。それから「わしゃ、もう、とんと思い切った」というせりふの「思い切った」がうまい。イキがつんでいるために真情が出るからである。
 「脱いだ下着は白無垢の」の父を見るところにも万感の思いがこもる。いよいよ後半の山場「浮かむ涙は水晶の」になる。この思い入れが少しも動かずにハラ一つ、ハラ一つでしかも気持ちが客席へ手に取るようである。「嬉しかったもたった半刻」もうまく、ここをほとんど動かずに思い入れ一つで乗り切ったのは大手柄。しかも芝居の持ち味、芸の面白さにあふれている。
 廻って土手場は、いつものことながら連れ弾きのために、お光のみならず登場人物全員の体があまっている。なんとかならないものか。福助のお光は前半さしたることもないが、落とした数珠を久作が拾って渡す、その手を握って顔見合わせたところで、激情がほとばしる。亡き梅幸のお光のあわれさを思い出させた。
 久しぶりに実力を発揮した福助一代の当り芸である。
 東蔵の久作は、すでにふれた通り最初の引っ込みがいいが、後半のお染久松への異見はさすがに持ちきれなかった。ニンにないのだから仕方がない。
 松江の久松は体が固く、志のぶのお染は、大家の娘というところからか、そっくり返っていて少しも色気がない。この二人で問題なのはなぜ二人が死のうとするのかがわからないこと。久松が死を決意するのはお染の妊娠を知ったからだが、それがどこで知ったのかわからない。形だけなぞってきちんと芝居になっていないからである。
 後の久作の意見に二人がうわべは納得するのも同様にどこでとうなったのか、少しもわからない。大いに困った。
 芝喜松の油屋後家お常は小粒ながらしっとりしているが、後半は芝居の足取りを上げるべきである。丁寧でいてテンポが速くなるべきである。
 幕開きの百姓三人はいいが、土手場になって三津之助の村人が出て駕籠かきや船頭と一芝居するのはおかしい。第一「晩に一杯」というからは油屋お常が乗って来た駕籠もお染の乗って来た船も、野崎村の地元の乗り物なのか。
 「野崎村」の前に松江の解説がつく。今度は十二支に因んだ動物尽くし。洒落ていて楽しいが、羊の代わりに「羊羹」は苦しい。ちゃんと羊の出る芝居があるのに。
▲戻る
HOME
新日屋に対する質問、
ご要望やお問合わせは
お気軽にどうぞ。
Copyright(c)2005 Shibaichaya Shinnichiya All Rights Reserved.