渡辺保「歌舞伎劇評」
→バックナンバーを見る
名品「喜撰」
2008年5月歌舞伎座昼の部
(クリックで拡大)
恒例の「団菊祭」。昼の部は「大物浦」「喜撰」「湯殿の長兵衛」の三本立て。なかでは襲名以来はじめての三津五郎の「喜撰」が名品である。
わずか三十分余りの踊りだが、見る者を陶然とさせて時の経つのを忘れさせ る。七代目三津五郎死後、これだけの「喜撰」はなかった。
まず花道の振りからはじまって、一挙手一投足、一分の隙も無駄な動きもない。きちんと踊って軽く、しかも嫌味がない。すなわち花道の間でいえば「小町桜の」と桜の枝をかざしてふり仰いだところに、喜撰法師の小町に対する情愛の性根がある。あるいはまた「法師、法師は」で手拭で頬被りをする、その手拭の出どころもきちんと判るという至れり尽くせり。見ていてさまざまにかわる風景、人物が面白いばかりでなく、動きにきちんとしたリズムがあふれてまことに快い。
本舞台へ来て時蔵初役のお梶が出る。このお梶がその描写、その心持ちがすみずみまで行き届いているのも、一つはむろん本人の努力、しかしもう一つは三津五郎の踊りに素直に応じているからで、その意味では二人の合性がまことによく、大いに堪能させる。たとえばお梶のくどき「賎が伏屋」でも相手の男はもとより徳利のかたちまで目に浮かぶようである。
チョボクレはもう少しこってりした味わいがあってもいいと思うが、襲名のときにはさすがに味わいに乏しかった「浪花江の」の住吉踊りから「姉さんおん所かへ」の悪身(男が女の真似をする滑稽な振り)が、今度は十分に面白くい。「浪花江の」の振りとしては卑俗でありながら芸としては上品な具合。ユーモラスで、飄逸な味わいがいい。
「姉さん」は、その起承転結、ガラリとかわる人物、風景を活写して面白い上に、「お泊りならば」のあとの三味線の合いの手にのってゆっくり女のしなをつくって廻るところに、この踊り独特の味わいが出ている。
久しぶりで踊りの面白さを堪能させる一幕。
この「喜撰」をはさんで前に「大物浦」後に「湯殿の長兵衛」。
期待した海老蔵初役の知盛は、さすがに義太夫狂言中の大役、つなぎをふくめて一幕三場、正味二時間はかかる大曲であり、先月の金丸座で素晴しい出来だった「夏祭」の団七九郎兵衛のようにはいかなかった。
最初の傘をさしての渡海屋銀平の出は、歌舞伎座の大舞台に負けぬ大きさに驚いたが、私の見た日はその後の芝居がぞんざいな上に、せりふ廻しに大きな欠点が二つある。一つは語尾がのびて間が抜けること。もう一つはここぞと思うところで調子が割れて観客のハラにこたえぬこと。その結果の一本調子でこの間は大して長い時間ではないのに大いに退屈。義太夫の勉強が足りない。
つづいて銀平から知盛にかわっての白装束の出。上手の障子屋体から右に持った長刀をはらって、右足から平舞台へ下りるところの味わいが無類。これはこの人の天性の持ち味である。こういうところが他の人にはない海老蔵の面白さだが、この持ち味が芝居に生きていない。わずかに天皇と別れるところが感動的なのみ。
この知盛が一変するのは次の大物浦である。血染めの装束、水入りの鬘、例の大目玉が血走って、目に紅をさしたという七代目団蔵を思わせる物凄さ、なにをしないでも「この世から悪霊の相」に見えるところが、形容だけは期待にたがわぬ出来である。
しかしここでも、これだけの姿、これだけのニンのよさが芝居全体に結びつかない。わずかに「天命、天命」とつぶやくところが絶望の深さに結びついて無類であること。もう一つは安徳天皇の「仇に思うな」を聞いている時の、顔、体に悲しさがあふれること。この二点は無類。しかしそのよさは部分に止まってドラマの全体と結びつかない。これだけの知盛がなかなか求めがたいことを思えば惜しみてもあまりある。
「三悪道」も、何のために、誰に語っているか不明。この知盛は今日吉右衛門と仁左衛門と二人が傑出していて、二人が傑出している理由は知盛のドラマが首尾一貫しているからである。たとえば「三悪道」も、吉右衛門はその無惨さを語ることによって義経及び源氏側の責任を追及し、仁左衛門は眼前地獄の風景を語って観客に訴える。そういう性根の研究が研究熱心な海老蔵にしてなお足りない。
魁春の典侍局は、教わった通りきちんとやっているのが身上。お柳の間の天気噺でも一々方向を変えるのが正しいが、そう変えずに変えたように見せるのも芸だろう。典侍局となってからは、知盛とははっきり違う身分を示していい。
さっきまでの夫を下に見る具合が嫌味にならずに自然に出ている。そういう具合だからこそ、この人の自害はただのお乳の人の自殺ではなく、宮廷全体の崩壊を思わせる。
友右衛門の義経が意外の上出来。団臓の弁慶、権十郎の相模五郎、市蔵の入江丹蔵。
沖の軍艦の灯の消える時に、船が沈没するのはよくない。知盛も義経も泳いで岸へ帰ったのか。凝っては思案にあたわず。
最後の「湯殿の長兵衛」が大顔合わせ。
団十郎の長兵衛はさすがに男前とキラキラ光る目が立派。せりふで泣かせる「人参牛蒡を売ればとて」の芝居はアッサリしてハラにこたえないのが残念。
藤十郎が女房お時をつき合う。
さすがに花道を出たところあたりを払う出来。江戸前とはいかないが、内へ入って子分たちを尻目に長火鉢の向うへ行くまでの裾さばきがあざやか。長兵衛との別れは、団十郎と合わしてに合わさず、合わさずに合わせる二人の具合が絶妙。涙をかくす夫婦の別れ、だれも見ていないから抱きついてもいいじゃないかと思うのは現代人の考え。
菊五郎の水野、梅玉の唐犬、三津五郎の出尻、彦三郎の近藤、権十郎以下松緑、海老蔵の子分、市蔵の金平と一座総出の近頃にない「長兵衛」である。
▲戻る
HOME
新日屋に対する質問、
ご要望やお問合わせは
お気軽にどうぞ。
Copyright(c)2005 Shibaichaya Shinnichiya All Rights Reserved.