渡辺保「歌舞伎劇評」
感動的な吉右衛門の伊賀守
2008年6月歌舞伎座
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 吉右衛門初役の「新薄雪物語」の幸崎伊賀守がいい。久しぶりに歌舞伎のドラマに感動した。歌舞伎ファンはもとより一般の演劇好きも必見の舞台。私は初日に見たのだが歌舞伎座の客席は異様に静まり返って、幕が締まるや万雷の拍手であった。われ人ともに心にしみ通る舞台だったからである。
 もっとも二幕目の「詮議」はさしたることもなかった。わずかに目についたのは、娘薄雪に疑いがかかったと聞いてハラのなかで受けている芝居だけであった。
 それが俄然面白くなるのは、「合腹」の花道の出からである。陰腹を切って首桶を持つ出は、この難役中のもっとも難しいところであるが、吉右衛門はわざとらしいことは一切しない。花道七三の木戸まで二度ほどとまるが、それもさり気なくおさえにおさえて、この難場をイキ一つで乗り切っている。そのイキが深いから顔面が蒼白に見えるようであった。
 本舞台へ来て、例の片足草履をはいたまま座敷へ上がるが、それもソッと草履を捨てて目立たない。ハラ一つである。
 その上にせりふがうまい。梅の方への「さぞお歎き」と悲哀に声を落とし、「兵衛殿には姫が首討たれしか、それ聞きたし」の焦りから「なんとでござる」と詰め寄るまで。そのせりふ廻しが悲痛をきわめる。「ただ木像の如く」も正面を切ったところが、初代吉右衛門を思わせる滋味である。
そこへ左衛門が出る。
 ここがうまい。あれほどいったのにそれを聞かぬ若者への絶望が「左衛門のバカ幽霊」いっぱいににじんで、最後の「なくなれ帰れ」の大音声、我を忘れて爆発する具合は芝居をはなれる迫力である。理屈をいえば腹を切っている人間がそこまで大声が出せるかというところだが、そんなことをこえて絶望の声が見る者の肺腑をえぐる鋭さである。仕込みに仕込みを重ねて爆発する、そのせりふ運びがうまいからこその大芝居である。
 この場は、舞台が廻ってここまでが白眉である。吉右衛門のよさもさることながら実はその向こうに芝翫の梅の方がいて、こちらに錦之助の左衛門がいる。
 その取り合わせがいいからである。
 芝翫の梅の方は前回もそうだったがここがいい。もともと「合腹」は死にかけた人間が笑うというグロテスクで荒唐無稽な芝居であって、なみのうまさではその面白さが出ない。ところが芝翫のような古典的なニンの女形が出ると、その世界が苦もなく扉を開く。観客が荒唐無稽も忘れてスンナリその世界へ入って行く。この立派な梅の方を向こうにおいて伊賀守の芝居が引立つのである。
 一方錦之助の左衛門も、そのなにも考えずに情だけで動くところがいい。その世界が一方にあることもまた伊賀守をきわ立たせる。この若者の無分別、裏切りが伊賀守の絶望を鮮明にするからである。この件りがこの場のドラマの白眉である理由である。
 三人笑いは、芝翫の梅の方が前回より舞台を締めてよく、今回は誰も失笑しなかった。一方幸四郎の兵衛はいささか誇大であるが、対照的に心理を追っている。吉右衛門の伊賀守はここでもすぐれている。低く笑いはじめて大きく爆発する。そのスケールの大きさが二人を圧している。ことに私は二つの点で感心した。一つはこれが笑いの芸になっていること。現実には無残な瀕死の人間が笑うのが面白いのは、これが芸だからである。もう一つ。さらに大事なのは、吉右衛門の伊賀守だけは人生の現実の苦悩から解放された自由さをもっている点である。若者への絶望、自分の死後のこと、それを考えれば伊賀守にはどんな希望もない。自分の命まで捨てているのに若者たちは事態を少しも理解しない。しかしそんなことはもういい。その全てから解放された自由。その自由を得たからこその笑い。その意味がきわめて鮮明で私は感動した。この曲の作意の本義である。
 序幕の「花見」。芝雀の薄雪姫がこの幕第一等の出来である。この役は外題にまでうたわれながら、とかく粗末に扱われやすい。しかし芝雀のそれは、情といい、色気といい、美しさといい、三拍子揃って充実した出来である。左衛門と階段の上下で別れるところなども絵になっている。夜の部「すし屋」のお里とともに今月芝雀大当りである。
 錦之助の左衛門もなんどりと鷹揚なところがいい。このカップルに対して意外にも福助の腰元まがき、染五郎の妻平の大人のカップルがよくない。福助は化粧のせいか美しくなく、ことに左衛門との空笑いで変な声で笑うのも色気に欠ける。それに初日のせいか、細やかな気配りにかけ、この役らしい情もない。
もっとも役の格はともかくニンからいえば芝雀と役が逆なのかも知れない。
 染五郎の妻平ははなやかさと艶に欠け、折角の色男が芝居の仕方で爺むさく見えるのが残念である。
 富十郎の秋月大膳は、前回と違ってライトをつけさせずに花道七三まで来ていて手裏剣を打つ。この方がいい。これも化粧のためか大敵の凄味には欠けるが、舞台が大きく今日の大膳である。花道の引込みで大きく見得をしたあとスーッと視線が下がっていく具合が、いかにも奸悪な感じを出してうまい。
 段四郎の団九郎は本役だが、さしたることもなかった。
 二幕目の「詮議」。幸四郎の兵衛、吉右衛門の伊賀守ともに平凡、錦之助の左衛門は「国行が死にました」を大過なくやっているが、この役でいいのはやはり次の「合腹」である。芝雀の薄雪姫は「花見」が一番。魁春の松ヶ枝はハラがうすい。夫と娘の苦しみをよそに見ていては困る。
 富十郎二役の葛城民部は口跡があざやかで場内を圧する出来。足が不自由なために国行の死骸あらためのところ、左衛門、薄雪の手を取るところ全て立身でやるのが不自由だが、その不自由さを口跡一つで補ってあまりある。まことに立派なさばき役である。
 富十郎が民部にかわるため、大膳のかわりは彦三郎の大学。
 昼の部は以上「新薄雪物語」三幕に、最後に染五郎、福助の踊り「俄獅子」。
 昼の部の充実ぶりに対して夜は狂言立てが不安定で、見ていてくたびれる。
義太夫狂言の「すし屋」に松羽目の狂言舞踊「身替座禅」鈴木泉三郎の「生きている小平次」に「三人形」と観客の視線は乱高下する。よくいえば目先がかわっていいというところだが、わるくいえば目が廻る。
 吉右衛門三十年ぶり二回目といういがみの権太は、今日だれよりも故二代目松緑をほうふつとさせる。芝居運びのうまさといい、悪のきかせかたといい、義太夫ものらしい味わいといい、前半まことに快調である。ことにのれん口への引込みはトントントンと下がって柱へ当らずに、オモテウラ、さらにオモテとクッキリ印象を残して入るキッパリした出来。ここと二度目の出の、すし桶をかかえての花道七三のお約束の大見得は、大きくキッパリして堪能させる。見ていて溜飲が下がった。
 しかし三度目の出からは、初日のせいか菊五郎型らしい切れ味がなく、わずかに梶原の前に首桶を置いたあとジロリと上下への目の配りが効いただけであった。初日のスタミナの配分のせいかも知れない。
 刺されてからはさすがに物語が聞かせる。自分が「いがみ」であったためにこの計画が成功したという誇りが崩れていく悲劇、「血を吐きました」前後の権太の人間性がうかび上がってうならせる。
 この「すし屋」はアンサンブルがいい。
 まず歌六の弥左衛門が、カドカドで大きく竹本につく芝居でガッチリと手堅く、万之丞の女房が、権太の話を聞いて「不幸者が」とつぶやくあたり絶妙の傑作。芝雀のお里はすでにふれた通り田舎娘の艶っぽさを見せ、染五郎の弥助も、その気品、その柔らかさでいい。今月四役中一番の出来。
 段四郎の梶原、高麗蔵の若葉の内侍。
 「すし屋」のあとが、新橋演舞場から掛け持ちの仁左衛門の「身替座禅」。
 この人の山陰右京が独特な面白さなのは、花子との件に色気があって艶っぽく、おかしみが効いている点である。別にこの狂言は上方のものではないが、仁左衛門のよさは、その上方風の和事の艶っぽい持ち味が生きているためである。
 段四郎の玉の井、錦之助の太郎冠者。
 次に鈴木泉三郎の「生きている小平次」。人間の本性、執着心がはしなくもあきらかになるという作品だが、幸四郎の多九郎は、最初図太く生きていた人間が、小平次の幽霊におびえて行く、その変わり目がはっきりしない。染五郎の小平次との釣り合いもよくない。染五郎の小平次は前半の執着心はともかくも後半幽霊になっての不気味さが出た。
 福助のおちかは女の多面性がもう一つ鮮明でない。
 このあと歌昇の奴、芝雀の傾城、錦之助の若衆で「三人形」。
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